立ち読みコーナー
目次
320ページ
序章     5
一章     19
二章     57
三章     90
四章     130
五章     157
六章     191
七章     230
八章     273
終章     305
あとがき   314
110ページ~
 ふふ、と笑い声が聞こえた。
 笑っている。
「……っ」
 胸が軋んだ。まるで錆びついた歯車が、ガチ、ガチとぎこちなく動きだしたように。
 その感覚に、頭の芯まで揺さぶられる。
 やり過ごそうと目を閉じると、彼女の存在がより鮮明になった。腕の中の柔らかな身体は、十五歳の頃と変わらない─いや、変わった。より柔らかく、女性らしく。
 首の後ろでひとつに束ねたマリカの、いまは赤みが強く見える褐色の髪からは、香水なのか、甘い匂いがする。夏の夜に咲く、しっとりと濡れた花のような。
 心に凝ったものまで蕩かしていくような香りに誘われ、さらに強く抱き締める。
 は、とマリカが吐息をついた。
「……レ、レヴィ……? ……は、離してくれる?」
「いやだ」
「わたし、帰らないと……」
「いやだ」
 レヴィルドは頭を傾けて彼女の髪に口づけ、少しずつその唇を落としていく。
 離して、とまた小さなつぶやきが聞こえた。
「……もう、帰るとは言わないわ。言う通りにする。だから、いまは」
「だめだ。あなたの言うことは、もう信じないと言ったはずだ」
 離したら、また去っていくかもしれない。
 偽りで固めた心ごと。
 そう、彼女は嘘をついた。求婚を断った理由について。嘘ではなかったとしても─それでも、伝えていないことがあるはずだ。
 カミル・サハリアシュ・ドレチェン─。
 ヴァルデル王に似た繊細な作りの中にある、熾火を宿した黒い目を思い出す。
 ほっそりとした、怜悧な少年だった。生まれにふさわしい華やかで高価な衣装で身を包み、仕草も優雅だった。
 しかしその目だけが違った。自分に向けられていた、焼き尽くすような鋭い目。憎しみと嫉妬と─あらゆる負の感情を乗せた、その目。
 マリカは彼を選んだのだ。
 俺ではなく。
 そして、そのことを話そうともしない。説明しようともしない。だから……。
「……信じない、マリカ」
 こめかみから頬へと唇を滑らせると、マリカは避けるようにうつむいて吐息をついた。
 ふるえるそれに、胸が鋭く抉られる。ポカリと空いたもの埋めようと、すぐさま、激しい感情が穴の底から湧き出た。
 俺ではなく─ああ、そうだ。俺を選ばずに去っていった女。
 そしてまた、俺ではない男のために、こうして腕の中に納まっている女。
 狂おしい感情が吹き荒れ、指先がふるえる。
「やめない」
 強く言い放ち、レヴィルドはひとつに編まれたマリカの髪に指を絡め、引っ張った。
「……あっ」
 小さな声とともに頭を仰け反らせたマリカの、無防備に開いた唇を塞ぐ。
 びくりと竦んだ身体を、さらに強く、持ち上げるようにして抱き締めると、爪先を浮かされたマリカが、反射なのか、肩に手を置いてすがりついてきた。
 指で押され、シャツ越しに感じる淡い痛みに、レヴィルドは唸り声を上げそうになった。
 背筋を駆けたのは、間違いなく欲望だった。
 顔を傾け、薄く開いたままの唇を舌で舐める。そうして濡らした小さな唇とまた重ね、くちゅ、と音を立てて吸い、食む。
「……あ……やっ……ぁ」
 しっとりと濡れた女らしい唇から、浅い息とともに声が漏れた。
「レ……レ、ヴィ……んっ、や……」
「マリカ……!」
 拒絶は聞きたくない。
 二度と。