立ち読みコーナー
目次
280ページ
海賊船の人魚姫         …5
船上ウェディング        …249
あとがき            …271
128ページ〜
「さすがに貴族の娘は肌が違うな。しっとりして、手に吸いつく」
 アレックスの声もまた、溶けた蜜をたっぷりとかけたような甘さがあり、前日の夕餉でマリーの色褪せたワンピースを褒めたときのようなぎこちなさは少しもない。本音を口にしていることは明らかで、だからこそ、その一言にマリーは凍りつく。
(――……違う)
 体の奥で柔らかく解けていたものが一瞬で熱を失い、マリーの頬がざっと青ざめた。
(私、貴族の娘なんかじゃないのに……)
 けれどアレックスはそう信じて疑ってもいない。一介の町娘でしかないマリーの肌を撫で、しっとりと肌に吸いつくようだなどと言う。実際にはろくな手入れもしていないから、さほど手触りがいいはずもないだろうに。
 だからマリーは唐突に理解する。アレックスは目の前にいる自分のことを見ているのではなく、貴族の娘という幻想を見ているにすぎないのだと。
 自分はただ、その幻想に体温と手触りを与えるだけの人形のようなものだ。
 わかった途端、あんなにも居心地のよかったアレックスの腕の中が、針の筵にすり替わってしまった気分になった。急速に相手を騙しているのだという実感が湧いてきて、罪悪感といたたまれなさにマリーは大きく身を捩る。
 それまでおとなしくしていたマリーの突然の行動に対処しきれなかったのか、思ったよりあっさりとアレックスの腕は離れ、マリーは緩んでいた胸当てを片手で押さえるとアレックスの横を駆け抜けた。
「おい、急にどうした」
 背後からアレックスの手が伸びてきてマリーの肩を掴む。マリーは鋭く体を反転させると音を立ててその手を振り払った。
 振り向いたマリーの目を見て、アレックスもようやく異変に気づいたらしい。
 唇を噛み締め、目一杯眉を寄せたマリーを、アレックスが驚いたような顔で見つめてくる。その唇が何か言いたげに開き、再び手が伸びてくるより先にマリーは踵を返して甲板から駆け下りた。
 ドレスは重く、靴の踵は高く、さほど早く動けないマリーを追うことは容易かっただろうに、アレックスは追ってこない。そのことにホッとしているのか落胆しているのかわからないまま階段を下り、船長室と続きの部屋に身を滑り込ませると、マリーは勢いよくドアのかんぬきを下ろした。
 しばらくその場に立ち止まり肩で息をしていたマリーは、いつまで待ってもアレックスが追ってこないことを悟ると、力尽きてずるずるとその場に座り込んだ。
 床の上に鮮やかな紅いドレスの裾が広がって、華やかな自分の装いを思い出したマリーは胸の柔らかな場所に深々と錐(きり)でも刺されたような気分になって目を閉じる。
(どんなに着飾ったって、本物のお姫様になれるわけもないのに……)
 けれどアレックスはきっとその事実を受け入れない。彼が望んでいるのはあくまで領主の娘で、だからこそ折に触れてマリーに貴族らしさを要求してくるのだろう。
(ドレスを着て、ダンスをして……まるで本物のお姫様みたいに……)
 そういう女が望みなら、マリーは永遠にアレックスの望む通りには振る舞えない。葡萄畑で本物の領主の娘がどれだけ可憐で、華奢で、持って生まれた気品に満ちていたか目の当たりにしているだけに、マリーは絶望的な気分になる。
(……私じゃないんだ)
 胸の中で呟いたら、真紅のスカートにぱたりとしずくが落ちた。