- 目次
- 288ページ
序章 5
一章 16
二章 39
三章 75
四章 129
五章 163
六章 193
七章 223
八章 238
終章 276
あとがき 284
96ページ~
「泣かないでくれ、すまなかった。許してほしい。……泣くな、頼むから」
ルディクは身体を離して、覗き込むように首を傾げながら、肩に置いた手を外した。そして顔を覆うシダエの手にその手を重ね、優しく引き剥がしていく。
ひくっ、とシダエはしゃくり上げ、目を開けた。
たぶん、ひどい顔をしている、と思った。貴婦人にあるまじき——王の姪である公女にふさわしくない、みっともない顔を。
だが間近で視線の絡む緑色の目は、安堵したように和らいでいった。
そっと指先が触れ、慎重に目元を拭われる。
「痛くないか?」
「……はい」
「赤くなっているな。……俺の指では痛いだろう。ちょっと待て」
手を止めたルディクは、上体を伸ばしながらシャツを頭から脱いだ。
長めの黒髪が落ちる広い肩は、女にはない硬い線をしている。斜めに照らす暖炉の灯りが筋肉のくぼみに陰影をつけ、際立たせた。
シダエは束の間、息を呑んで男の身体を見つめた。
たくましい胸元、波打つような筋肉のついた腹部——その肌の上には、白い筋になって残る傷があった。左肩に、脇腹に。いくつも。
同じような傷痕のある腕が伸び、脱いだシャツを鼻先につきつけられて反射的に両手で受け取ると、ルディクは頷いた。
「俺がやると痛いだろう? それは綺麗だから、使うといい」
たしかに石鹸の香りがする。だが鼻腔をくすぐるそれよりも、シャツに残ったほのかな温かさがシダエの心をふるわせた。
「ありがとうございます……」
広げた両手にシャツを乗せ、そこに火照った顔を埋めた。目の奥までジンジンと痛むような熱で、めまいがする。
——期待をしてはいけない、と心の隅で小さな声が警告した。
あのときだってそうだった。
十七、八だったルディクが、十三歳の自分が思っていたほど大人ではなかったのだと、いまならわかる。慣れない王城でなにかあったのかもしれないと想像もつく。
それでも、冷たく拒絶されたときの痛みが、シダエを臆病にさせた。
彼は、妻になった女を気遣っているだけだ……。
「……あの」
目の前の力強い身体を目にしないように、顔を伏せたまま声をかけた。
「ルディク様、わたしは、だいじょうぶです」
「だいじょうぶ?」
「はい。妻に……妻にしてください」
軽く息を呑むような音がしただけで、返事はなかった。
花嫁の血がついたシーツは翌朝、夫に確認される。
ルディクに見てほしかった。だれにも汚されてなどいないと証明したい。
ただひとり、あなただけに捧げるのだと。身を以て。
シダエは顔を上げた。
「あ、あの……」
また涙が滲んできたが、手にしていた大きなシャツで手早く拭い、そのままベッドの外に放った。布が床に着くよりはやく自分の肌着に手をかけ、するりと肩から滑り落とす。
「わたし、精一杯、努力いたします」
「……シダエ」
大きな乾いた手が重ねられ、肌着を脱ぐ動きを止められた。
「ふるえている」
「……寒いから、です」
ルディクは手を握ったままかすかに息を呑み、おもむろにベッドを軋ませ身体を近づけた。
上掛けに包まれたシダエの下肢を跨ぐように両膝を突き、背を丸めて覗き込んでくる。長い黒髪が揺れ、むき出しの上半身に影が落ちた。
自分とはまるで違う身体の造りに、知らず見惚れてしまう。
あちこちに刻まれた傷痕さえもその美しさを損ねていなかった。鍛えた胸板は厚く、細く引き締まった腰に続く。紐でゆるく結んだ脚衣は、腰骨の半ばまで落ちていて——シダエはギュッと目を閉じた。
「温めてください……!」
言いきったのと、太い両腕が背に回されたのは同時だった。