- 目次
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序章 5
一章 15
二章 67
三章 105
四章 149
五章 188
六章 229
七章 269
終章 301
あとがき 315
101ページ~
「……なぜ?」
「すみません。お休みでしたか?」
ミウレトは上体ごと首を傾げ、セジェンの長身越しに部屋をちらりと覗く。
「どなたか、ご一緒に?」
「いや」
セジェンはすばやく答えて、仕切りを持ち上げたまま身体を斜めにして中を示した。
「眠ってもいなかったし、ひとりだ」
「……あちらに行かなかったのですか?それとも、だれか来るのを待っているのですか?」
「そうだな、だれかは来るかもな」
鼓動は奇妙な拍を刻んだままだが、セジェンは口元を歪めて嘯いた。
するとミウレトはハッとしたように目を見開き、なにかを言いかけた。しかし声を発することなく顔を伏せてしまう。濡れた髪が重たげに頬を滑り、三本の白い傷を隠した。
仕切りを持つのとは逆の手を上げたセジェンは、ミウレトの髪を払った。指の背に、滑らかな肌と傷痕のかすかな盛り上がりが伝わる。
「……っ」
ミウレトは大仰に身を竦ませ、セジェンの手を叩くようにして払った。そして自分の頬に指先を当てて傷を隠した。
見上げてくる大きな黒い目は潤み、揺れている。
触れたことを非難する視線ではなかった。黒い目には不安だけが宿っている。
セジェンは胸を突かれた。ミウレトの頬の傷─猫の爪痕にも似たそれは、バステト女神がつけたしるしとして有名だった。
神のしるし。特別に愛されたしるし。誉れとするべき傷だ。
けれど彼女にとっては……。
「用はなんだ、神官殿?」
些細なやり取りを気にさせないためにできるだけ優しい声音で問うと、ミウレトは安堵したように肩から力を抜いた。
「……ほんとうに、どなたかいらっしゃるのですか?」
「ここに?」
「ええ」
「まさか」
セジェンは短く笑って、首を横に振った。
「だれも来ない。……いや、来たな」
長身を屈めて、セジェンはミウレトに顔を近づけた。
「あなたが」
彼女がこの青い色の目を気に入っているのは知っていた。武器は惜しみなく使えと学んでいる。セジェンはじっとミウレトを見つめ、にやりと太い笑みを浮かべた。
「……あなたが来た」
「わたしは」
息苦しくなったように喉元を押さえ、ミウレトは唇をわななかせた。ふるえたその唇を舐め、喘ぐようにして声を絞り出す。
「ここに女性がいたら、追い出すつもりでした」
「……追い出す?」
セジェンは首を傾げ、女神官の言葉を反芻した。しかし理解するよりはやく、パッと顔を上げたミウレトの、挑むようにきらめかせた黒い目に見据えられて息が止まった。
「ほかのだれかではなく、遊ぶなら、わたしと遊んでください」
ぼんやりする耳を、ミウレトの声が叩く。
開けた口を閉じるのも忘れ、セジェンは女神官を凝視した。
紅潮した頬と、潤んだ大きな黒い目。
甘い香りのする肌。女性らしい曲線のある、しなやかな身体つき……。
─わたしと遊んでください。
鈍くなった頭が、ようやく意味を理解した。
途端、身体の芯を焼いた熱に煽られ、セジェンはごくりと唾を飲んだ。