立ち読みコーナー
目次
272ページ
序章                             5
第一章 婚約解消、するなら二度も三度も同じ?         26
第二章 性格、変わりすぎじゃないですか?           56
第三章 覚えているのは俺だけですか?             88
第四章 結婚以外の夢を見たら駄目ですか?           106
第五章 甘い新婚生活が待っていた?              141
第六章 夢の実現に向けて                   227
第七章 うまくいったときに限って落とし穴ってあるものですね  241
終章                             265
あとがき                           270
序章
『前髪、どうして切らないの?』
 相馬光子、六歳。九歳の古賀忠士に初めてかけた言葉がこれだ。
 このとき光子は、古賀男爵家に里子に出され、ひとり息子である忠士に引き合わされたばかりだった。それなのに光子は爪先立ちになって、忠士のふんわりした、少しだけ金髪が混じった前髪をかき上げてそう聞いたのだ。
 彼は背を屈めたまま瞳をまん丸とさせていたが、光子はもっと驚いていた。その瞳が、緑がかっていたからだ。
  ——宝石みたい……。ううん、それよりも、もっと透き通っていてきれい!
 緑眼から目が離せなくて、光子は彼の前髪をかき上げたまま凝視していたが、『さすが姫!』という豪快な声とともに古賀男爵が笑い始めたので、慌てて手を引っ込めた。
 光子は子ども心に何か褒めなければと思い、『世界が緑色に見えたりするの? 私、緑ってすごく好きな色だからうらやましいわ』と、頓珍漢なことを言ってのける。
 前髪が下りて瞳が見えなくなっていたので、忠士の表情はよくわからなかったが、きっと呆れたか、怒っていたことだろう。
 白人とのハーフなどほとんどいない世の中で、彼はいつも好奇の目にさらされてきた。しかもフランス人の母は日本での生活に慣れず、忠士が五歳のとき息子を置いて母国フランスに帰ってしまったと聞く。
 古賀男爵は、日本に戻ろうとしない妻を離縁していて、光子が里子になったとき、忠士には日本人の継母がいた。
 子どもの忠士が自分の中のフランスの血を隠したいと思っても無理もない。そうでなければ、不自然なほどに前髪を長くしたりしていなかっただろう——。


  ——なんであんなに偉そうだったのよ、私……。
 思い出すたびに、光子は二重の意味で悶絶する。
 ひとつは忠士の天使のような美しさに、もうひとつは自分のあまりに高飛車な態度に。
 これにはわけがある。
 相馬伯爵家はもともと福山藩の当主の家柄で、明治になっても、筆頭家老の家系だった古賀男爵は相馬伯爵を殿と呼び、忠誠を誓っていた。
 幼少期に子を他家に預けるのは華族の慣わしで、父がひとり娘の光子を古賀家の里子にしたいと古賀男爵に申し入れたとき、男爵は喜びにむせび泣いたという。
『殿、今も古賀家を筆頭家老だと頼ってくださるのですね!』
 そんな事情があり、古賀家で、姫、姫と、下にも置かぬ扱いを受けていたものだから、幼い光子は勘違いして、忠士に横暴な態度をとってしまった。
  ——本当は、忠兄さまのこと、大好きだったのに!
 光子は、忠士の緑眼をいつも見ていたいものだから、『目を瞑ってじっとしていて』とだけ言って、勝手に彼の前髪をはさみで切ったこともある。
 目を開けたときの忠士の顔が忘れられない。短くなった前髪を触って呆然としていた。その後、理髪師の手によって切り揃えられたのは言うまでもない。
 忠士が天使なのは見かけだけではなかった。光子が小さな暴君だったのにもかかわらず、優しく接してくれた。
 自分のことが好きだからだと、当時は勘違いしていたが、物心がついて両家の関係性を理解するにつれ、光子は恥ずかしさのあまり、消えてしまいたくなる。
 忠士が光子に優しかったのは、父親から姫として扱うよう命じられていただけだ。
  ——かわいそうな、少年、忠兄さま……。
 幼い光子は、その後どんどん図に乗った。
 あれは麗らかな春の朝のこと。
 邸内にある剣道道場の壁の下部にある通風用の窓から、中で朝練する忠士に向かって『助けて〜』と光子は叫んだ。慌てて飛んできた忠士の手をつかんで光子はこう言った。
『さっき読んだ絵本で、騎士が姫を救うところが、すっごくかっこよかったの。姫を連れて逃げてよ』
 屋内にいるのは、忠士のほうなのに、窓から光子を引きずり入れさせ、馬に乗って逃走するはずが、馬がないので、なぜか騎士だったはずの忠士を馬にして“お馬さんぱかぱか”を強要した。
『フランスのお姫さまが食べるようなお菓子を作ってほしい』と、無茶ぶりして厨房でお菓子を作らせたことも——。
 そんな数々の我儘は思い出すときりがない。
  ——それなのに忠兄さまときたら!
 母親が置いていったフランスの料理本を見ながら、最初に作ってくれたのが『シャルロット・マリー・アントワネット』。ババロアのデザートだ。こんな解説までしてくれた。
『これはマリー・アントワネットというオーストリアからフランス王太子に嫁いだお姫さまが愛したお菓子なんだよ』
 これがやわらかいのにぷるぷるした食感で、口の中に上品な甘みが広がり、おいしいのなんの。光子がのちにフランスに傾倒する原体験となった。
 ほかのお菓子も作るよう光子に命じられ、忠士は次々とフランスのお菓子を作ってくれた。
『これは離宮で、マリー・アントワネットが自分で焼くぐらい好きだったというメレンゲだよ』といった具合に——。
  ——いえ、待って。
 マリー・アントワネット関係のお菓子が多すぎではないだろうか。
 ぞくっと光子の背筋に悪寒が奔る。
  ——もしや……いつかギロチンにかけてやるという決意の表れでは……?
 それにしても、フランスのお菓子を作ることで、忠士は継母の不興を買っていたような気がする。
 あれは、厨房の隅で小さな椅子に座り、光子が忠士とメレンゲを食べながらおしゃべりしていたときのことだ。
  ——いえ、あれはおしゃべりというより、独演会だったわ……。
 大抵、光子がたわいのないことをまくし立てて、忠士は穏やかな笑みを浮かべて聞いているだけだった。
 そのとき、たまたま厨房に入ってきた古賀夫人がふたりを一瞥して、つぶやくようにこう言った。
『日本のお菓子は口に合わないようね?』
 忠士の瞳が急に曇る。
『そういうわけでは……』
 臣下がいじめられていると思った光子は立ち上がってこう抗議する。
『古賀のおばさま、召し上がったことがないからそんなことをおっしゃるんですわ! 日本人だろうが宇宙人だろうが、このお菓子なら、誰しもがおいしいと思うはずです』
 そう言って、メレンゲが山盛りになった大皿を差し出した。
 姫に言われたものだから古賀夫人は形ばかりの笑みを作り、ひとつ摘まんで口に入れる。
『あら、甘くておいしいわ』
 そのとき古賀夫人の表情が明るくなったので、本当においしいと思ってのことだ。
『でしょう?』
 自分が作ったわけでもないのに、光子は得意げに応じた。
 今思えば、古賀夫人にまで、よくもあんな偉そうな態度をとれたものだ。忠士だけでなく、夫人にも嫌われていたに違いない。
 思い出すたびに、この世から消えたいような気持ちになるが、当時、光子は幸せだった。
 古賀家での二年はあっという間に過ぎ、父である相馬伯爵自ら、古賀邸に迎えに来たとき、光子は『ずっとここにいる!』と言い放ち、行方をくらました。
  ——温室に隠れているところを、忠兄さまに見つけられたんだっけ。
 忠士に説得されかけていたところに、古賀夫人と侍従が現れ、時間がなかったのか、引き裂かれるように連れていかれた。
 あのとき駄々をこねなければ、ちゃんとお別れの挨拶もできただろうに——。
 結局、光子は侍従によって父の馬車に押し込まれ、泣きながら二年ぶりに自邸に戻った。
 忠士がどんなことを言って光子を説得したのかについてはあまり覚えていないが、ただただ、忠士と離れ離れになるのが辛いという気持ちだけが強烈に残っている。
 忠士はその後、華族学校の寄宿舎に入ったそうだ。帰宅しているはずの日曜日でさえも、古賀邸に彼の姿はなく、会うことがかなわなかった。避けられていたとしか思えない。
 光子は成長するにつれて、幼い日の自身の勘違いぶりに気づくようになり、忠士への甘い気持ちに、苦みが加わるようになっていった。
 古賀家は、家老に与えられることが多い男爵の位を授かっていたが、その後、忠士の父、古賀男爵は大蔵大臣まで昇りつめ、伯爵に陞爵している。男爵だった当時でさえ、地位も名誉も財産も、もとの主君である相馬家を上回っていた。
 ただ、古賀男爵の忠義の心が、相馬伯爵を殿と言わしめ、敬わせていただけだ。


 そして今、光子、二十四歳。嫁き遅れの年齢なのに、実家で過ごしているのにはわけがある。