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目次
312ページ
プロローグ             7
第一章 とんでもない寄付      28
第二章 孤児院の行く先       57
第三章 二人で過ごす初めての夜   98
第四章 新たな契約         160
第五章 奸計と収穫祭        208
第六章 最愛の人          252
エピローグ             279
おまけ 二人の騎士         297
あとがき              305
プロローグ

 国境からそう遠くない場所に、一軒の孤児院がぽつんと建っている。周囲に広がる乾いた大地はひび割れていて雑草すら生えない。生暖かい風が砂埃を舞い上げながら吹き抜けていく。
 殺伐とした景色の中、築十年足らずの建物は綺麗だった。風に紛れて子供たちの楽しそうな声が響いてくる。
 微笑ましい音に耳を傾けながら、サニアは洗濯物を取りこんでいた。ホワイトゴールドの長い髪が風に揺らめいて、きらきらと光彩を放つ。日の眩しさに琥珀色の目をすっと眇めた。
 孤児院で子供たちの世話をする女性は、年齢や既婚未婚にかかわらず全員マザーと呼ばれている。未婚のサニアも孤児院のマザーの一人であり、つい先日二十三歳になったばかりだ。
 サニアが洗濯物についた砂埃を払いながら取りこんでいると、耳に届く笑い声の中に泣き声が混じる。手を止めて急いで声のするほうに駆け出した。
 庭につくとたくさんの子供たちがいる。その中で、まだ六歳のネイがうずくまっているのが見えた。
「どうしたの?」
「サニア! 玩具の車が壊れて、ネイの指に刺さっちゃったんだ」
「ええっ? ネイ、指を見せてごらんなさい」
 サニアは泣いているネイの手を取って確認する。小さく柔らかい手には大きな木のトゲが刺さっていた。
「大変、すぐに抜かないと」
 地面には真っ二つに割れた木製の玩具が転がっている。数年前に寄付されたもので、やんちゃな子供たちに遊び尽くされたそれはボロボロになっていた。
 おそらく、玩具の取りあいで引っ張っているうちに壊れてしまったのだろう。割れた部分から木のトゲが飛び出ている。
 サニアは壊れた玩具を拾った。これはもう直せないし再利用もできない。子供たちに片付けさせるにはトゲが危険だし、かといって手当てをしている間ここに放置しておくわけにもいかなかった。まだ小さい子も多く、触るなと言ったところで気になって手を伸ばしてしまうだろう。
「あなたたち、ネイを連れて中に入っていて。これを片付けたらすぐに行くわ」
「わかった」
 すぐにでも手当てをしてあげたいが、二人目の被害者を出すわけにはいかない。サニアは子供たちを促してから、玩具をごみ捨て場に持っていく。
 子供たちというのは、なにをするかわからない。ましてや、孤児院にいるのは親から愛情を持ってしつけられた子供たちではないのだ。ごみ箱を漁っては駄目だと言っても、マザーが見ていないところで面白そうなものを勝手に取り出して遊ぶ子もいる。だから子供たちに触らせたくないものは、わざわざ鍵のかかるごみ箱に捨てなければならない。
 孤児院裏手のごみ箱の鍵を開け、中に壊れた玩具を捨てる。しっかりと施錠して、サニアはすぐに戻ろうとした。早くトゲを抜いてあげなければと気が急く。
  踵を返して足を踏み出した瞬間、地面のひびにつま先が引っかかってしまった。身体が宙に浮き、思いきり転んでしまう。
「あっ!」
 手をつく前に膝から地面に落ちた。乾ききった大地には大きなひびが走っているから、いつもなら気をつけている。しかし、今はネイのことが気がかりで、注意力が散漫になっていたらしい。
「い、痛……っ」
 スカートをまくって確かめると、膝の皮が剥けて血が滲んでいた。だが、長いスカートのおかげで直接地面に擦らずに済み、傷口に砂は入っていない。不幸中の幸いだ。
 スカートの砂を払い落とせば、怪我をしているなんて誰にもわからないだろう。血も少量だ。サニアはじんじんと痛む足でネイの元に急ぐ。皮が剥けた痛みよりも、膝を打った痛みのほうが強い気がした。
(あとで冷やさないと。でも、まずはネイの手当てよ)
 ネイはまだ小さい。自分の手にトゲが刺さっているなんて痛い上に怖いだろう。
 サニアは小走りで孤児院の中に入る。他のマザーが手当てしていてくれれば——と甘い期待を抱いていたが、ネイは泣きべそをかいたまま椅子に座らされていて、周囲には子供たちしかいなかった。
 この孤児院には三十人ほどの子供がいるが、マザーは四人だけ。食事も掃除も赤子の世話も四人で回さなければならず、手が空いているマザーなどいない。
 子供たちはネイの怪我が大したことないと判断して、他のマザーを呼びに行かずサニアを待っていたのだろう。
「待っててね、ネイ。今、手当てをしてあげるから」
 サニアは救急箱からトゲ抜き用の金具を取り出すと、ネイの小さな手を取る。突き刺さったトゲがなんとも痛々しい。
「痛いわよね。少しだけ我慢してね」
 優しく声をかけながらトゲを抜く。小さすぎるトゲには針を使い、ようやくすべてのトゲを抜き終わった時には疲労感がどっと押し寄せてきた。
「よく頑張ったわね。あとは消毒をして、お薬を塗りましょう」
 消毒液は染みるので、ネイは涙でぐちゃぐちゃになった顔をさらにしかめる。しかし、サニアは心を鬼にしてネイの手を消毒した。
「痛ーい!」
 ネイがバタバタと足を動かす。
「きちんと消毒しないと、もっと痛くなるかもしれないの。もうちょっとだけ頑張りましょう」
 消毒のあとは薬を塗って包帯を巻く。まだ少し痛むだろうが、ネイもようやく落ち着いたようだ。涙が止まっている。
「はい、終わったわ。これで大丈夫。すぐによくなるから」
 サニアはネイの頭を優しく撫でた。すると、低く穏やかな声が部屋に響く。
「頑張ったな、ネイ」
 はっとして顔を上げると、扉の側で腕を組んでいる長身の男性がいた。
 彼はクローヴァス・ペルティエ。この孤児院のすぐ側にある国境を警備する国境騎士団の団長だ。
 少し硬そうな黒髪に、鮮やかな青い瞳。すっと通った鼻筋は高く、顔立ちは整っていた。先日三十四歳になったと言っていたが、落ち着いた大人の色気がある。
 騎士である彼は肩幅が広くがっしりとしていて、服の上からでも身体の厚みが窺えた。
 彼の姿を見たサニアの頬が微かに染まる。
  ——実は十年ほど前まで、この国は隣国と戦争をしていた。今孤児院が建っているこの大地の上で戦いが繰り広げられていたのである。
 その戦争で多大なる功績を立てたのが彼、クローヴァスだ。彼が前線を守っていてくれたおかげで、国の大部分は戦禍を被ることはなかったのである。
 戦況は決め手がないまま拮抗し、結局隣国とは和平条約を締結することになった。長い戦争に国全体が疲弊していたというのもある。
 戦後、功績を認められたクローヴァスは国境騎士団の長に任命され、警備に当たっていた。
 この孤児院はなぜか砦街の外れにぽつんと建っており、それを気にしてかクローヴァスはよく様子を見に来てくれるのだ。
「クローヴァスさん!」
 彼になついているネイがぱっと表情を輝かせる。クローヴァスはネイの脇の下に手を差しこむと高く抱き上げた。
「うわぁ! たかーい!」
 目線がぐんと高くなり、ネイが嬉しそうに手足をばたつかせる。
「俺も!」
「わたしもだっこー!」
 子供たちがクローヴァスの周囲に集まると、ネイを下ろしてから彼は笑いかけた。青い目が優しげな弧を描く。
「ああ、あとでな。先にサニアと話があるから」
「クローヴァスさん、ようこそおいでくださいました。こちらへどうぞ」
 サニアは救急箱を片手に彼を応接室に案内する。これを子供たちのいる場所に残していったら、きっと包帯で遊ぶに違いない。それだけではなく、小さい子が消毒液を舐めてしまったら大変だ。だから、救急箱を置いていくわけにはいかなかった。
 そんなことを知らない子供たちは、無邪気に「絶対遊んでね!」とクローヴァスに向かって声をかけている。
 応接室に向かう途中、彼が口を開いた。
「勝手に入ってすまなかったな。……とはいっても、一応は子供が案内してくれたんだが」
 どうやら、年嵩の子供が彼を案内したらしい。しかし、サニアがネイの手当て中だったので、彼は邪魔をしないよう静かに見守っていてくれたのだろう。
 領主なんて子供が泣いていようがどうしようが、こちらの都合お構いなしに「すぐにもてなせ!」とうるさいから、クローヴァスの優しさが心に沁みる。
「クローヴァスさんならいつでも大歓迎ですよ。さあ、どうぞ」
 サニアは応接室のドアを開けた。質素な孤児院の中でも、応接室はそれなりに整っている。華美ではないが清潔感があり、来客をもてなすには十分だ。
 彼をソファに座らせてから救急箱を置く。
「お茶を用意しますね」
 サニアが部屋を出ていこうとすると、ぐいっと腕を掴まれた。触れた肌の温もりにサニアの胸が跳ね上がる。
「ク、クローヴァスさん?」
「サニア。君、もしかして足を怪我していないか」
「え?」
 腕を引かれて無理矢理ソファに座らされる。
「右足か? 見せてみろ」
 どうやら、先程ごみ捨て場で転んだ時の怪我がばれていたようだ。子供たちは誰も気付かなかったというのに、さすがは騎士である。痛む足を庇いながら歩いていたのを見逃さなかったらしい。
「少し転んだだけなので、大丈夫です」
「大丈夫かどうかは俺が判断する。ご婦人の衣服に触れるのは気が引けるが、見せないというのなら俺がまくる」
「……! わ、わかりました」
 さすがに彼にスカートをまくられるのは恥ずかしすぎる。サニアは膝の部分までスカートを持ち上げた。
 血は乾いている。しかし、膝が真っ赤に腫れていた。転んだ直後は軽い擦り傷だと思っていたのに、いつの間に腫れていたのだろう?
「わ……」
 サニアは自分でも驚いてしまった。確かに痛かったけれど、まさかここまで悪化しているとは。
 まじまじと自分の膝を見ていると、クローヴァスは薬箱を勝手に開けて消毒液を取り出す。
「手当てする」
「えっ。自分でやります」
「傷の手当てなら俺のほうが上手い」
 サニアは消毒液に手を伸ばしたけれど、あっさりとかわされる。彼は瓶の蓋を開け、患部を消毒した。ちりっとした痛みが膝に生じる。
「少し触るぞ」
「……んっ」
 クローヴァスは傷口を避けて膝に触れてきた。太い指が肌を撫でる感触に、痛みよりも羞恥心を覚えてしまう。触れられた部分が熱い。
 彼は真剣な眼差しでサニアの膝を見ていた。
「骨に異常はないが、冷やしたほうがいい。だが、しばらくは走ったり、重い荷物を持ったりするのはよせ。子供たちの相手があるから動かさずにいるのは無理だろうが、できる限り安静に。少し待ってろ」
 そう言って立ち上がると、クローヴァスは応接室を出ていってしまう。
 少ししてから、彼は濡れたタオルを持って帰ってきた。子供たちの誰かに用意させたのだろう。それをサニアの膝に当ててくれる。
「ありがとうございます」
 サニアは頭を下げる。
「いや、別にいい。……しかし、君はもう少し自分を大切にしたほうがいい。転んだだけと思っていても、これは放っておいたら悪化するぞ。腫れて歩けなくなったらどうする」
 強い口調で窘められる。
 この優しい騎士は、サニアを心配してくれているのだろう。迫力があるけれど、怖いという気持ちより、嬉しさで胸が躍ってしまう。
「私が歩けなくなったら、みんなに迷惑をかけてしまいますね。でも、さっきはネイが怪我をしていたので、すぐに手当てをする必要があったんです」
「小さい子を優先するのはわかる。だが、俺のほうは待たせてもよかっただろう? 足取りがおかしいから気付いたが、そうでなかったら、いつまでこれを放置しておくつもりだった?」
「うっ、それは……。でも、クローヴァスさんをお待たせするわけにもいきませんから!」
 気まずそうに言葉を詰まらせたあと、サニアは笑顔で言い切る。
 この孤児院にとって、防衛面でもそれ以外の意味でも、彼はとても大切なお客様だった。彼よりも自分を優先するなどありえない。
「はぁ……」
 クローヴァスが大きな溜め息をつく。
「サニア、君はもう少し自分を大切にしてくれ。そもそも、君がいなくてはこの孤児院は成り立たないんじゃないか?」
「それは……」
 サニアは言葉に詰まる。
 この孤児院のマザーは四人。一番若いのが二十三歳のサニアであり、他の三人は齢六十を超えていた。人生経験のある先輩マザーたちはとても頼りになるが、力仕事はすべてサニアが担っている。
「そうですね。私が動けなくなったら他のマザーに迷惑をかけてしまいますし、子供たちも困っちゃいますよね」
 サニアは素直に反省する。
 クローヴァスはますます眉間の皺を深めた。どうやら、サニアの答えが気に入らなかったらしい。
「そうじゃない。同じ仲間なら迷惑はかけていい。……そうだな、逆に考えてみろ。他のマザーが身体の不調を隠していたらどう思う?」
「胸が痛くなります。体調が悪いなら隠さないで休んでほしいですし、そのぶん私が働きますので」
「他のマザーたちだって、子供たちだって、君に対して同じように思うだろう」
「私に……ですか?」
 思わず小首を傾げる。
 確かに、マザーたちも子供たちも心根の優しい人ばかりだ。きっと心配してくれるだろう。
 だからといって、甘えたいという気持ちは芽生えてこなかった。
「でも、私は大丈夫です。我慢できますから。それしか、とりえがないんです」
 芯の強さを滲ませてサニアは微笑む。
  ——今から十年ほど前のこと、父親は徴兵され戦地で命を落とし、母親は病で亡くなった。
 薬を飲めば治る病気であったが、不運なことに薬の原料が隣国でしか採れない植物だったのである。戦時中はろくに手に入らず、母親は治療できずに命を散らした。
 まだ十三歳だったサニアは天涯孤独となったが、父親が徴兵される際に家族にまとまったお金が支払われていた。母親の薬を買うことは叶わなかったが、十代前半の子供が命を繋ぐのには十分なお金である。
 戦争が終わるまではなんとかそれでしのぎ、戦後は新しくできた孤児院に身を寄せることができた。戦後は多くの孤児がいたが、残っていたお金の寄付を条件に優先的に入れたのだ。
 お金があっても、まだ十三歳の子供が一人で生きていくのは難しく、孤児院に入れてほっとしたのを覚えている。
 孤児院には同じ年頃の少女が何人もいたけれど、その中でサニアが一番大人しくて聞き分けがよかった。とはいえ、孤児院は子供のための施設であり、大きくなれば出ていかなければならない。
 サニアも独立する必要があった。しかし子供たちの数に対してマザーが不足していたので、他のマザーの推薦もあり、そのまま孤児院で働けることになったのである。
 その他の子供たちは働き口を見つけることになったが、全員が望む職に就けたわけでもなかった。特に女子は厳しく、誰もがやりたがらない職に就かざるを得なかった子もいる。
 そうした一人が孤児院を発つ前、「なんであんたが!」とサニアに怒鳴った。苛立ちを募らせた顔に、吊り上がった眼差しがサニアを射貫く。憎悪の声は今でも耳に残っている。
(どうして、私が……)
 彼女の言葉にサニアはなにも答えられなかった。
 たまたま、一番聞き分けがよかっただけ。大人しかっただけ。病気の母親の面倒を見ていたから、料理と裁縫が他の子より得意だっただけ。
 サニアは抜きん出て優秀なわけではなかった。ちょっとしたことが他の子より少し上手にできた——それだけで、人生が分かたれたのだ。
 マザーは給金がもらえないけれど、屋根のある場所で、食べるものにも困らず、子供たちの相手をして生活ができる。サニアは紛れもなく幸せなのだろう。
 ただ、投げかけられた「なんであんたが!」という言葉から今でも頭から離れない。
(私は特別秀でているわけじゃなかった。運がよかっただけ)
 人生の分水嶺でわずかな差が運命を分かつ。
 特別優秀ではない自覚があったサニアは、自分が選ばれた罪悪感もあり、子供や先輩マザーのために尽力しようと心に決めた。
 自分のことはすべて後回しだ。子供たちの面倒をよく見て年配のマザーたちを助ける。我慢することなら自分にでもできるから、耐える人間になろう、と。